佐藤文隆編「林忠四郎の全仕事」(京都大学学術出版会)より引用するページ。

多くの理論天文学関係者の大ボス(私からするとボスのボスのボス)である、 有名科学者の関わった文章や対談などをまとめた大著。 いわゆる追悼文集に相当するものであるが、第一章は自叙伝であり、 自らが晩年に関係者に配布していた手作り?の自伝を編集したもの。 残りの章は日本語論文や解説、対談、弟子達による文章、追悼文を集積して、 全781ページハードカバーという、故人の句作や詩作を集めたような追悼文集では決してない。 自叙伝部分は、生い立ちから始まって、旧制高校、大学入学、第二次大戦時の従軍を経て、 研究者となりという折々の出来事が事細かく記述されている。 研究者となって以後は、研究上の重要なアイデアや論文だけでなく、海外出張の顛末、 学生とのやりとりや、他大学の先生との会議なども含めて、とにかく細かい。 詳細な日記をつけていないとここまでの記録ができないのではと思うが、 博覧強記すぎるのかもしれない。以下、面白いと思ったところを抜粋。

48ページ「電子計算機の初めての使用(1959)」 1959-1960にNASAゴダード研究所に滞在した時に。

さて、ここNASAでのゼロックスによる便利な複写やIBMの高速電子計算機の使用は私の初めての経験であって、帰国後は、教室にゼロックスやカード・パンチ機を導入するとともに、共同の計算室を設置するように努力した。また、東大教養の小野周教授らと協力して、わが国の共同利用の計算機センターを七箇所に新設し、その一つを強大に設置することに数年間尽力した。

林忠四郎とその門下生たちの重要な仕事は、偏微分方程式の数値解に依存していて、日本で計算機を正しく使い始めた最初の研究者の一人であり、その影響は今でも非常に大きい。天体物理学研究では数値計算とコンピュータシミュレーションは欠かせない研究手法であり、そのため計算機の利用が得意な天文学者が多いのは偶然ではなく必然なのだろう。計算機科学や計算機工学が確立する前、研究者の必要性から計算科学は存在していた。

81ページ「パソコンとソフトの勉強」 1984年に京都大学を定年退官した後のこと。

退官の時に贈られたパソコンとソフトは富士通製であり、これは、富士通のハードウエアは信用できるとの松田君たちの推薦によるものであった。しかし、実際はソフトが駄目で、大原謙一君の約二ヶ月の援助の後に、やっとパソコンは動き出した。東大物理に勤務していた佐藤勝彦君が後で言うところによると、当時、MSDOSのソフトを用いていた同君のNEC製のパソコンは簡単に動いていたのである。つまり、UNIXを簡略化したMSDOSの有用性を軽視したのは、富士通の技術者の大きな失敗であった。

自分の弟子達なのだから君づけなのは当然ではあるが、著名な先生の名前が頻出する。

ところで、私は大型計算機の設置の運動をしていた頃から、計算機のハードウエアとソフトの両面の機構の奥底を一度は知りたい(ブラック・ボックスの中身を一度は覗きたい)と思っていたので、この機会に長期にわたる勉強を始めた。

改めて念の為、定年退官後のことです。

パソコンの買い換えは、1986年にはFM11に代えてFM16βを購入。1996年には富士通製のMSウィンドウ95を購入、1999年にはNEC製のウィンドウMS98を購入、2003年にはウィンドウMSXPを孫の浩平に頼んで組み立て、2006年にはデル製のウィンドウMSXP(3.2MHz)を購入した。

最後のクロック周波数はあきらかに誤植。この時期は定年退官後の70代後半から80代にかけての時期なのだから、やはりメモ魔だったのか。

93ページ「放送大学の視聴」

1999年には、36吋の大型テレビを購入し、パラボラ・アンテナを二つ設置して、BS(衛星放送)とCS(通信衛星)の両方の受信が可能になった。有益なテレビ番組がないときに、CSによって無料の放送大学の番組を見ることができるようになったのは、予想外に幸いであった。

その頃、弟子の一人であるこ杉本大一郎先生(ボスのボス)が、東大退官後に放送大学で教鞭をとっていた。

97ページ

さて、私のこれまでの経験によると、GoogleのWikipediaの記事は、かなり信用がおけるものである。

2000年代にはパソコンを研究の計算や作図に使うだけでなく、情報取得にも利用するようになった、その経験から。

99ページ 2004年の開催された「星形成と太陽系起源」シンポジウムでの研究発表で、自らがおこなったN体計算について報告。この時84歳ですね。

このN(=30〜1000)体の運動の計算は、倍精度と4倍精度の、4次と6次のルンゲ・クッタ法を用いて行った。重力のカットオフはしなかった。計算の結果、初期が非回転の場合は、自由落下時間の3倍以上の時間がたつと、粒子の存在領域は、球状のコア・楕円体状のハロー・拡がったエスケープ領域の3領域に分かれることを見いだした。(中略) さて、精度や次数の異なった計算で得られた値を比較することによって、このN体問題の本質はカオス的であるという重大な発見をした。すなわち、決定論的な予測ができる時間には限界があり、また初期条件への強い依存性があることがわかったのである。

個人的には、大学院の研究テーマとしてN体計算(SPH法)を選んだのは1995年ころのことであるが、理研に在職した2004年頃に演算器のハードウエア実装をやりはじめ、その関連で4倍精度演算について教示をうけたのは2006年のことであった。その後、4倍精度計算の高速化手法の研究をソフト・ハードとも色々とやってきたが、すでにその2年前「4倍精度でN体計算」をおこない、自明ながらもそのカオスの性質を計算機上で発見し報告されていたことには、複数の意味で驚いた。科学の世界は巨人の肩に乗って発展するものではあるが、孫悟空がお釈迦様の手の上から逃れることも難しい!

1章の自叙伝部分は他の部分も読み物として面白い。決して天体核、天体物理学という専門分野だけでなく、日本の物理学の歴史にも関わりが深い。うまく編集すれば新書として売れそう。

1章の最後には、付録として年表の他、論文業績リスト、指導学生のリスト、そして媒酌人をしたカップルのリストがある。